福島を記憶すること
弁護士 髙 崎 暢
1 3月11日、原発事故から10年を迎えたが、その記憶と経験が風化しつつある。事故の収束のめどが立たず、汚染水や廃炉の問題など困難さを増している。政府が発令した「原子力緊急事態宣言」は今も解除されていない。多くの人々が、放射性物質による汚染によって、住むところを追われ、故郷と仕事を失った。政府や東京電力などは事故や事故の影響を小さくみせかけ、補償を打ち切り、老朽原発さえも延命させ稼働させようとしている。
2 「たかさき法律事務所9条の会」は、福島の被災者を励まそうと、毎年3月11日に現地を訪れてきた。
(1)7年目の福島。「被災地は、帰還困難地域の標識も少なくなり、一見復旧が進んでいるかのようであるが、無人の広大な空き地、フレコンバッグの仮置場を覆う巨大な緑のシートは、被災地の再生はまだまだであることを実感させる。原発事故は、故郷と地域に根差した文化や産業を根こそぎ奪った。7年経った今もその爪痕は残されたままである。住民の「心の復興」は手つかずといっても過言ではない。被爆被害は、もともと無用な被曝で、今のような事態にさらされるのが腹立たしい。「何もなかった」という決着を望む一方で、「何もなかったで済まされるのは納得がいかない」という気持ちが錯綜する。被災者というだけで差別されたり、住民同士が反目しあったり、分断させられたりしている。年々深刻になっている。今も放射線に汚染された水は増え続け、生活基盤や故郷を奪われた被災者が日本中に散らばっている現状は少しも変わっていない。これが被災の実態、被災地の現状である。」「帰還困難地域を解除された飯舘村にも行ってきた。帰還者は537名(3月1日現在)で、事故前の1割にも満たない。飯舘村のこども園・学校への就学希望者は、震災がなかった場合の就学予定者は640名のところ、平成30年度就学希望者はわずか97名、7分の1程度である(教育委員会資料)。一日も早い、までいの村飯舘の再生を望む。」
(注)「までいの村」とは、「までいに(ていねいに、心を込めて、大切に)村づくりをしてきた」という意味
(2)10年目の福島。フレコンバッグは中間貯蔵庫に運び込まれ巨大な緑のシートは見えないが、真新しい大型施設が目立つ。肝心の住民の居住が回復しない(全県で居住率31・4%(1月1日現在)、居住者の半分は作業員という町もある)。その背景には、地域社会が機能していないこと、帰還困難区域や未除染地域が残っていること、溶けた核燃料(デブリ)による事故の不安が消えないなどの事情がある。住民本位の復興にはほど遠い。「復興五輪」の言葉が虚しい。
3 昨年10月、寿都町長と神恵内村長は、核のゴミの最終処分場選定の文献調査に応じた。2年間で20億円という「おいしい」交付金が転がり込む。原発推進交付金が「麻薬漬け」とまで呼ばれ地元自治体の財政依存体質を生み出し、「原子力で明るい未来」のはずだった立地自治体の夢は幻に終わろうとしている。二人の首長は「フクシマ」から何も学んでいない。
そして、子どもたちの未来を金にかえてよいのだろうかと考えると胸が痛む。
原発を稼働し続ける限り核のゴミは発生する。事故が起これば取り返しのつかない被害をもたらす原発は直ちに廃止することである。これが、「3・11フクシマ」の最大の教訓であったはずである。
4 福島の被災者を励ます旅は励まされる旅でもあった。被災者の体験談はいまだ私たちの想像を超えるものがある。
今年も見つめ記憶することの大切さを、被災地福島は語りかけていた。
それは原子力をコントロールできると考えた人間の愚かさと傲慢さを忘れるなということである。
(2021年3月17日記)